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「他人に期待しない生き方」が出来ない人は、神社に行け

神社,鳥居 未分類
ダルク
ダルク

どうもダルクです
凄ーく久々だけど、割と真面目に啓発記事書いてみた

日常生活を眺めていると、他人に対してイチイチ腹を立ている人が、あまりにも多いと感じる
職場では上司が部下に、家庭では家族に、SNSでは見ず知らずの誰かに
怒りの感情は常に「他人」に向いている

なぜ、これほどまでに人は他人に振り回されて、消耗してしまうのか
原因を考えると、大きく二つあるように思う

「他人に期待しない」という生き方

落ち葉で作った笑顔

他人に対して怒りを感じる原因は大きく二つ

一つ目は、「人は分かり合えるものだ」という前提に立っていることだ

言葉を尽くせば伝わるはずだ、誠意を見せれば理解してくれるはずだと信じて疑わない

だが現実には、それだけ言葉を交わしても、どれだけ時間をかけても、完全な相互理解には至れないのである

価値観も感性も違う人間同士が、必ずしも相手が本音で話しているとは限らない以上、完全に分かり合えると考える方が、むしろ不自然であろう

このあたりは、別記事であるがコチラで少し触れている

二つ目は、「他人に期待しすぎている」ということだ

最近よく耳にする「他人に期待しない」という生き方は、他人の感情や行動はコントロールできないのだから、自分の意思や心に意識を向けよう、という考え方だと私は解釈している

この視点自体は非常に重要だと思う

実際、他人を支配しようとする人、意のままに動かそうとする人ほど、いつも他人にイライラしているように見える

あまりにも他人に高望みして、勝手に裏切られた気になって怒っている人もいるし、なんでも他力本願で生きている人も少なくない気がする

「他人に期待しすぎない」という姿勢が大切だということに異論はない

「期待」の正体は「見返り」である

河津桜

しかし、一方で、私は「完全に他人に期待しない生き方」は不可能ではないかとも思っている

なぜなら、人は誰しも自分一人では生きていないからだ
社会の中で生きる以上、大なり小なり他人に依存し、影響を受け合いながら生きていくしかない

では、私たちは一体、他人の何に「期待」しているのだろうか
それは突き詰めると、自分の行動や感情に対する「見返り」ではないだろうか

例えば、
・何年も指導しているのに、一向に仕事を覚えない
・多額の投資をしたのに、結果を出してくれない
・何度も注意をしたのに、全然直してくれない
・こんなに愛しているのに、愛してもらえない

これらの怒りの正体は、「これだけやったのだから、こう返ってくるはずだ」という見返りへの期待が裏切られたことにある

ここで必ず持ち出されるのが、「期待」と「信頼」は違うという一般論だ

「期待とは結果を求めることだが、信頼とは相手を信じて任せることだ」
「期待はしないが、信頼はすべきだ」
という説明は、確かに理屈としては美しいと思う

だが正直言って、この二つを実際に人間関係のなかで明確に線引きできている人が、どれほどいるだろうか

仕事を任せる場面を想像しているとわかりやすい
任せきりにせず、サポートやマネジメントもするのが前提だとしても、アウトプットを期待しない人はいないだろう

むしろ、「この人ならできる」「伸びしろがる」と思うから任せるのであって、その「見込み」自体がすでに「期待」に他ならない

信頼とは、期待を一切含まない純粋な行為なのかといえば、私はそうは思えないのだ

信頼とは期待を自覚したうえで、それでも相手にゆだねる態度に近いのではないか
期待と信頼は切り離せないからこそ、人は裏切られたと感じて絶望している気がする

さらに厄介なことは「give&take」という考え方が、人間関係の基本姿勢として社会に深く根付いていることだ

この構造の中で「他人に期待しない」という思想を表面だけなぞると、「他人に一切与えない」、「損をしないように関わらない」という方向へ簡単に転んでしまう

誰しも自分のために生きている

夫婦岩

ではここで視点を変えて考えてみる

他人に見返りを一切求めず、与え続ける生き方は可能だろうか

結論を言えば、不可能だ

誰一人、他人のためだけになど生きてはいない
誤解を恐れず言えば、人は皆、手前勝手にしか生きられない

「子どものため」、「会社のため」、「推しのため」、という言葉も、突き詰めれば全部自分のためだ

「自分が親としてそうありたいから」、「社員としての自分がそうしたいから」、「ファンである自分が満たされたいから」、そうしてるだけ

私はこれを「自己中心的利他」と呼んでいる

利他的に見える行為も、その動機は全て自己に帰着する

この事実から目を背けて、「~のために」という言葉に酔っていると、やがて拗らせて「~のせいで」という他責の思想に変わる

ダルク
ダルク

「自分のためだけに生きれたらいいのに」とか言ってる人がいたけど、
君の願いはもう叶ってるよ

自分主体で変換できない人ほど、人間関係をこじらせ不幸になっているように見受けられる

「与えてる」のではなく「お返ししてる」と思え

伊勢神宮

では、他人に期待せず、他人のためだけにも生きれない私たちはどう生きればいいのか

私がたどり着いたマインドセットは、自分の他人への行動を「与える」と考えないことだ

施しだと思うから、見返りを期待してしまう
そうではなく、すでに自分は周囲から多くのものを受け取っているのだと認識し、自分の行動はそれに対する「お返し」だと捉えればいい

この考えに至る上で大きかったのが神社という存在だ

ダルク
ダルク

久しぶりにこんなガチな記事かいてるけど、
私は神社ブロガーだからね(;・∀・)(笑)

私は神社によく行くし、神道の精神もよく理解している

神道には仏教のような明確な経典が無いが、その根底になる考え方は「自分を取り巻くことへの感謝」である

雨、風、太陽、森、そして日常
もともと自然崇拝から始まった神道は「当たり前」に見えるものへの感謝で成り立っている

神社で再選を投げるとき、多くの人はお願い事をするだろうが、本気で願いを叶える対価としてふさわしい金額を投げている人はいないだろう

少なくとも私は、日々無事に生きていられることへの感謝のお返しとして、お供え物感覚で賽銭を投げており、本気で願いが叶う見返りなど求めてはいない

この感覚を、人間関係にも広げてみる

私は与えているのではない
すでにたくさん周囲から与えられている
だからこれは「施し」ではなく「お返し」なのだと

仕事で「いつもお世話になっております」と書き出すビジネスメールも、実は非常に優れたマインドセットなのではないかと最近思う

腹が立つ相手に対しても、とりあえず世話になっていることにしてしまう
そうすれば、これからの労働は「お返し」と捉えることもできる

先人の知恵とは意外とこういうところに宿っているのではないだろうか(笑)

ちなみに余談だが、推し活も同じだ

私がスパチャを投げる感覚は、神社に賽銭を投げる感覚と限りなく近い

日々元気をもらっていることへの感謝のお返しであって、見返りは期待していない
読まれなくたっていい

グッズを買うのも、自分が欲しいものを買っているだけとも言える

ダルク
ダルク

応援したいからって気落ちはもちろんあるよ(;・∀・)
私がしたいからそうしてるだけってことね

そのくらい自分主体で、かつ謙虚でいたい

「他人に期待しない生き方」が出来ない人は、神社に行けばいい

そして、自分がどれほど多くのものを、すでに受け取っているかを、静に思い出してみるといい

ダルク
ダルク

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